制作◆ひじおりの灯◆藍染灯篭

2017.11.18

夏に山形県の奥地、肘折温泉で開催される「ひじおりの灯」に参加しました。
今年で11回目の「ひじおりの灯」、今回はアーティスト10名が肘折温泉をフィールドワークし、灯篭を制作します。

「温泉街で滞在制作を行い、肘折の暮らしや自然、歴史などの物語を八角の灯籠に仕立て、夏の夜の温泉街で点灯してきました。描かれてきた情景は、大蔵村の夏をうたう風物詩として宵闇の温泉街を照らしてきました。」(公式ホームページより抜粋)

肘折を歩いてみると、ちょうど五月頃だったので山菜が集落の入り口付近にも生えていた。
肘折の人に話をきくと、「ここはそもそも山の中だから」と言うけれど、集落のすぐ周りにこんなに食べれる物があるのは珍しいと思う。
「サナブリ湯治」というものがあり、田植えが終わったら休暇に農家が湯治にくることを指した。
その際に山菜採りに出かける人が多く、朝早く山菜を採りに行き、昼前には帰ってきて道で通りすがりのお客さんと話をしながら山菜の始末をする。そして夕方には温泉に浸かり酒を飲んで寝る。これを一週間ほど繰り返し、一年ぶんの山菜を採って帰る人もいたと言う。
これは高度経済成長期のお客さんの多い頃でもそうだったらしい。
中には次の年も山菜を採るための採り方、マナーのようなものを知らずに無尽蔵にとって帰る人もいただろう。それでも山菜はなくならず未だに集落の入り口に生えている。しかも、そんなに採られて困ることはないのかときくと自分たちが採る場所は別にあると言っていた。
なんとも豊かな話だ。
肘折からちょうど葉山を挟んで向こう側の僕の住んでいる町では、そうはいかない。
山の方へ行くと「入山禁止」の看板やテープ、時には駐在さんが地域外からの山菜採りを窃盗で現行犯逮捕している。
地域外からの山菜採りはその土地に暮らす人に迷惑をかけるのでやめて欲しいが、なぜ必死になるかといえば採取できる場所や量が限られているから、みんな必死になるのではないだろうか。

僕は、肘折のおおらさかさは無限のおおらかさだと思った。
肘折という土地は若い。
火山の噴火によって土中が露わになり、せいぜい1万年といったところだ。人が日本列島に最後に移住してきたのが1万5000年前だから人の歴史より若い。現在もマグマの熱で温泉が湧き、地中だった山からは食料が無限に採れる。
この無限性、おおらかさは土地の若さに由来するのだろう。
折口の本を読んでいたら、ヲチミズ(変若水)という古い言葉があった。それは人の世界の外から届く水を指し、似た言葉でユカハがあり、省略されユ=斎(ゆ)=湯(ゆ)となった。冷たい湧水も湯と呼ぶが、温泉がとりわけ神聖視された。禊や湯沐みに用い、蘇りや若返る力があるという。
今回の灯篭では、土地の象徴である「若さ・無限性」をよみがえりの物語として描いた。

手がのび気づけば 知らぬ山
母の鳥から 子の口へ
卵になりて 湯につかり
みはれオギャーと よみがえり

手がのび気づけば 知らぬ山
洞穴もぐれば 熊の口
くそにまみれて 湯につかり
みはれオギャーと よみがえり

日本の創生神話に登場する国造りや温泉の神、スクナビコナが肘折にて獣に食われ体内を通過し、卵や糞として現世に現れ、湯につかることをきっかけに再生するという話だ。